2001年5月3日 学連の人々(11)

  毎年夏には恒例の夏合宿がある。4泊5日、費用一人頭4万円が当時の目安だった。関東甲信越一帯から候補地を選んで行くのだが、当時でも4万円というのはかなり厳しかった。行った先に器具があるのが理想だが、そうもいかないので大抵はトラックを借りて器具を運んでいくことになった。
  合宿は合宿なのでむちゃくちゃをやる。ダブルスプリット・ルティンである。別にレベルなんて関係ない。班ごとに決めたメニューをやるのだが、裁量はすべて班長にある。オーバーワークになりに行くようなもんだ。
  最終日(本当の最後は移動日。その前日)には恒例のマラソンがある。当時私は走る方面の知識が皆無であり、シューズもべた足の、そうデッドリフト用のようなものしか持っていかなかった。それで確か10km近く走ったのだと思う。距離的には、スピードが問題にされなければさして苦痛ではなかったが、問題は脚の関節である。ちょうど半分ほど走ったところで右膝が痛み出した。ちょうど半分なので宿舎からもっとも遠い地点である。やめるもならず、戻るもならず、とにかく走りきった。コンテストまで約3ヵ月という時点でのこの怪我は致命的であった。以後、しばらくは脚のトレーニングがまったくできなかった。
  減量に入ったが、どうしても脚をやらないから脚の仕上がりが気になる。10月の声を聞くようになるともう痛いなどと行っておれないから脚のトレーニングを再開した。ところが脚のセパレーションがまったく出てこない。あせって、スクワットのインターバルにエルゴメーターをぶっ壊れるほど踏んでみたりもしたが、思うに任せない。
  その状態で、新人戦のゲストに出た(新人戦のゲストは前年の新人王)。真っ暗な舞台に出て行くと、

グワッキ〜ン

と右の脛に衝撃が走って痺れた。痺れたが、ゲスト・ポーズをしなければならない。当日はゲストなので髪型も普段のまま、当時はくるくるパーマである。出て行ってポーズをとると、桜も含めて(たぶんほとんど桜)お〜、という声があがる。ちなみにこのときの仕上がり具合は自己評価で7割である。右足を前に出し、ぐっと力を込めて、えいやっとばかりマスキュラーだっ!と、その時、会場の前の方から

脚が切れてない

と一言。チクショー、キニシテルコトヲ・・・
  帰りがけに明るくなったステージを振り返ってみると、脛に衝撃を与えたのは舞台の後ろの方に下ろしてあった金属製の照明の笠だった。脛には思いっきり傷ができて流血していた。唯一の女子部員安田さん(もう一人いたけど、確か少し前に辞めていたと思う)にバンドエイドを2枚もらって貼って帰ったが、数年間傷跡が消えなかった。