2000年6月17日 学連の人々(2)

  秋になるとボディビルディングの全日本学生選手権がある。秋、といっても12月の第一日曜日か11月の第5日曜日だったから、正確には冬である。その全日本学生選手権の出場権を賭けた東日本学生選手権が11月の第2日曜日にあり、11月の第1日曜日は関東学生新人戦であった。そのうえ、学園祭ではクラブ主宰のコンテストをやる。これもだいたい文化の日であった。
  秋にコンテストが集中することもあって、春の関東学生選手権は主力組の中にはパスする人もいた。私もその一人である。当時学連の大会は国内の大会の中でももっとも絞込み、仕上りが重視される大会であった。それはバルクで勝負できないからということもあったわけだが、とにかく仕上りが良くないと予選落ちである。そのため限界まで絞るので、春と秋の年2回出場するのはかなりの負担であった。
  1年生の時はまったく絞らないまま新人戦に出場した。先輩に連れられて新宿のココナッツ・クラブに通ったが、私はデブのまま焼きこみ首に細い白い縞が残った。「コイツ、デブやから首に縞ができよる」と笑われたが、絞った時もそうだったからあまり関係ないようだ。この縞は焼きこみを続けるうちになくなった。当時は無論ガングロなんて風俗はないし、通常色が醒めていく時期に黒くなっていくので、「肝臓悪いの?」などと語学のクラスの友達にからかわれたりした(後で本当に肝臓で入院する破目になるとは思いもしなかったなぁ)。「日焼けサロン」など説明しないと分かってもらえないし、そんな商売が成り立つということを信じられない人たちも多かった。
  新人戦は予選落ちであった。前年の新人王は先輩の土井さんで、いわばディフェンディング・チャンピオン校であったのだが振わなかった。優勝は東海大学の山下さん、同期では明治大学の武石君が表彰台に乗った(確か3位?2位?)。これにより武石君は翌年の新人戦の出場権を喪失し(新人戦は2年生まで出場できるが、関東、東日本などの大会で入賞したり、1年生の新人戦で3位以内に入った者は出場できない)、その分私にチャンスが回るのである。
  この年は新人戦と学園祭のコンテストがバッティングし、学園祭の方には出られなかった。学園祭では毎年錚々たるゲスト・ポーザーを招く。この年は小沼さんだった。ちなみに次の年が朝生さんでその次がまた小沼さんである。
  東日本にも出場したが、もちろん予選落ちである。亀山さんが4位、道田さんが5位、田尻さんが8位で、優勝は法政大学の本田さんだった。当時は坊主刈だった法政大学の杉山さん(9位)が強く印象に残ったことを覚えている。全日本は大阪での開催であり、道田さんが4位、亀山さんが6位で、我がクラブ悲願の全日本表彰台奪取はまたお預けであった(それは1991年池田、萩原の1、2フィニッシュで達成される)。当時は圧倒的に東日本勢が優勢であり、チャンピオンは本田さんである。ちなみにわがクラブは大阪開催の時は自主応援で、貧乏タレの私は応援に行けなかった。